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変態(メタモルフォーゼ)アニメーションナイトというNEW CHANNEL(3) エイミー・ロックハート、ホン・ハクスンと向かう超次元への旅

土居伸彰 Dec 7 2017

「変態ナイト」主宰の土居伸彰による短期連載の第3回目。今回は「変態ナイト」をスタートさせてから新たに知ることとなった「第二世代」の作家について。

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変態ナイトの第二世代:解放されるというより、頭がおかしくなる

過去の二回の連載はブルース・ビックフォード、ピーター・ミラードという二人の作家を紹介してきた。「変態ナイト」というイベントを産み出した彼らはいわば、変態ナイトの「第一世代」であるといえる。今回は「変態ナイト」をスタートさせてから新たに知ることとなった「第二世代」の二人の作家について話したい。この二人は、変態ナイトが持っているポテンシャルを改めて認識させてくれるとともに、アニメーションが僕自身が思ってもみなかった新たな「高み」へと辿り着きうることを教えてくれる。エイミー・ロックハートとホン・ハクスンというその二人の作家は、今回の「変態アニメーションナイト ザ・ツアー: セレブレート」でも来日する。

変態ナイトは観客の意識や心持ちを解放して楽にするところがあるが、その作家たちには共通点があるように思える。日常とは違うスケール感を作品に宿らせることによって、「自然の流れ」のようなものに触れさせるのだ。たとえばビックフォードであれば、繁茂する自然や栄枯盛衰を繰り返す人類というふうに、人間的な視点が極小にも極大にも押し広げられる。ピーター・ミラードは、アニメーションや映画というフォーマットを破壊することで、自分に染み付いたもの、観客や作り手が当たり前とするものを壊し、自分自身を解放し、刹那的な解放を与えようとする。この二人はある意味で、現実・物理的な世界に根差している。自分たちが過ごしている世界をベースに、スケールを変えて、枠組みを破壊することで、別のやり方でそれを見せていく。

一方で、今日紹介するエイミー・ロックハートとホン・ハクスンは違う。この二人の作品が最終的に見せるものは、物理的現実を高次元的にツイストさせたり、現実の運行を統べているメタなものに触れさせたり、とにかく、別世界を垣間見せる。だから、この二人の作品はピーター・ミラードやビックフォードのように必ずしも解放感を感じさせるわけではない。作品に寄り添って「なんでこんな展開になってるんだろう」と考えれば考えるほど、頭がおかしくなってくる。ミラードやビックフォードが頭の揉みほぐし、ストレッチだとすれば、エイミーやハクスンは、捻りを加えるなかバミューダトライアングル経由で異次元に放り込まれるような感じがある。

それでは、ピーター・ミラードさんからの紹介です:エイミー・ロックハート

エイミー・ロックハートはピーター・ミラードから教えてもらった。2012年の広島から始まる変態ナイト第一期が一通りの展開を見せ、2013年のYCAMへのピーター・ミラード訪問ののち、ピーターは上映やトーク、ワークショップをやるために東京に訪れた。そこでピーターが自分自身に影響を与えた作品のひとつとして、エイミーの「歩いて歩いて」を挙げたのである。大学院の授業中に先生に観せてもらったこの作品を観て、ピーター曰く、「アニメーションは物語がなくても成立するのだ」という発見があったらしい。(ある意味で罪な作品である。)

その作品がこちらである。

エイミー・ロックハート「歩いて歩いて」

僕自身もこの作品を初めて観て、結構な衝撃を受けた。2004年の作品とのことだが、まるで20世紀の、それも70年代とかそれくらいの質感に思えた。(妙なアナクロ感はビックフォードにも共通するところではあるのだが。)16mmで撮影されていて、なおかつ切り絵というアナログな手法がその一因ではあるだろう。だがそれだけでもない気がした。なにか本質的に、時間感覚のズレがあるように感じた。

後から調べてみれば、この作品はエイミーがアニメーション制作を学びはじめた時期のものにあたることがわかった。アニメーション初心者向けワークショップの定番の課題として、「歩く」という動きを描くというものがある。たとえば、(「ロジャーラビット」のアニメーション監督として有名な)リチャード・ウィリアムスは「アニメーターズ・サバイバルキット」という教本を出しているが、そのアニメーション版の教材としてこんな映像を作ったりしている。歩きという動きを通じて、そのキャラクターの人格や性格さえも規定されるのだ、という信念があるわけだ。(しかし、リチャード・ウィリアムスもかなり狂っている…あまりに大物だが、いつか変態ナイトの枠で上映したい。)

アニメーション・ファンにはお馴染みだが、70年代のカナダ国立映画製作庁(NFB)で一世を風靡した天才ライアン・ラーキンも、「歩き」という題材だけで一本の作品を作り上げ、アカデミー賞にもノミネートされている。

ライアン・ラーキン「ウォーキング」

こんなふうに、繰り返しアニメーション作品自体の題材になるくらいに、「歩く」という動作はアニメーション史の基本のなかにしっかりと染み付いたものなのだ。

ただ、同じ歴史の系譜にあるのに、これらの作品とは違って、エイミーの「歩いて歩いて」は、観ていると頭がおかしくなりそうになってくる(きませんか?)。リチャード・ウィリアムスの歩きはカートゥーンの定型キャラへと回収され、一方でライアン・ラーキンは人体のデッサンをベースとしているので、つまりそれらの歩きは人間的な世界へと着地してきく。

しかしエイミーの場合、それぞれのキャラクターの動きが、「それはそもそも歩きですか?」と素直に思ってしまうくらいに、「歩き」という言葉でまとめていいかわからない境界線上のものである。そして、作り上げられているキャラクターたちは、動きを見たところで、はたしてどういう性格の(そもそもどういう世界の)ものなのか、その着地点が見えない。それぞれのキャラクターが、独自世界と法則性を築き上げていて、自分自身が独自世界に暮らしているということに疑問さえも持っておらず、むしろ、キャラクターたちが関係性を持ちはじめることでその独自世界の独自性に新たな法則性が生成してしまっているということに、頭がおかしくなりそうになってくる。

キャラクターたちの声がまたその混乱に拍車をかける。これらの声は赤ん坊たちを想像させるが、一方で頭のおかしい成人女性の声とも解釈できる。なんだか一番ヤバイなと思うのが、その衒いのなさ。一回りした無防備さみたいなものに、怖さを感じてしまう。

さらに、これは変態ナイトの作品に共通して言えることだが、それぞれの動きや展開が、しつこい。10分という尺だが、ビックフォードの作品のように、永遠に終わらないのではないかという気がにさせる。それに、炭酸を飲むことによる泡の無限生成、ポコポコポコポコ……という音が頭から離れなくなる。どのキャラクターたちもヘンな言葉を繰り返し発するのは、この作品の元となったワークショップが、キャラクターにセリフをつけてみようというものだったことに端を発するらしいのだが、そういったネタばらしがあったところで、それはわかった、でも、それだけで納得しきれないなにかがあるよな、という残余感が漂う…

エイミー・ロックハートという「メディア帝国」は無為に観客の身体を支配する

エイミー・ロックハートの活動は多岐にわたる。アニメーションも作ればZINEも作るし、絵も描けば実写もやる。アニメーションもドローイングも切り絵もあればデジタルのものもある。短編もやれば長編もやろうとしている。エイミーのインタビュー記事を読むと、どうも彼女は、エイミー自身の「メディア帝国」を作っている意識らしい。だからいろいろな手法を試すわけだ。

ではなぜ自分自身のメディア帝国を作りたいのかといえば、いまあるメディアがどのようなメカニズムによって動いているのかそれを認識しつつ、笑い飛ばし、ズラしたいからなのだという。それはシンプルにいえば、こういうことであるーー「物事をシリアスに捉えすぎないこと」。ピーターが個人の(もしくはアニメーション界の)拘束を、ビックフォードが人類の拘束を外そうとするとすれば、エイミーがやろうとしているのは、社会の領域の拘束をバラバラにしてしまおうとすることなのだ。

「ミス・エドモントン・ティーンバーガー1983 ”パーティーの時間だよ!”」

このあたりからも、エイミーがビックフォードやピーターと異なる点が見えてくる。ビックフォードやピーターは自分と世界・宇宙が向き合う求道性のシリアスさで作品を作るとすれば、エイミーの作品には中間的な領域がある。エイミーの作品には常に関係性の物語がある。メディア帝国が私たちの行動様式を操るように、エイミーもまた、自分の世界の人々を操り、支配する。しかし、エイミーのメディア帝国における支配は、特に何の目的があるわけでもない。キャラクターたちは何かの掌のうちにいるが、その先はない。だが、メディアとその支配という原理はその根本に埋め込まれている。これはいわば、無為なメディア。たぶんそこらへんにエイミーの作品における頭をおかしくさせる部分があって、エイミーの作品を観るとき、わたしたちは、自分たちの行動原理を支配するものの成り立ちを目にして、一方でそれが違った方向に機能しているという、ある種の「異化」が働くのだ。

エイミーがアニメーションというメディアにとりわけ惹かれているのは、アニメーションが扱うのが「透明なもの」であり、「動くもの」であるからだという。つまり、かたちあるものとして認識できないなにかである。たとえばそれは、メディアが私たちの思考や行動に影響を及ぼす何かの力のようなものだったりする。エイミーは「ドローイングを動かす」のではなく「動きをドローイングする」というが、それは実験アニメーションの巨匠ノーマン・マクラレンによる「アニメーションの定義」のテキストに書かれているのと同じことである。だが、マクラレンがあくまでアニメーションの形式的な実験の範疇におけるコメントとしてそれを言っているのに対して、エイミーが「動きをドローイングする」ことに見出している射程は広い。運動それ自体は目に見えないが、一方でそれは私たちの身体に食い込んでくる。アニメーションは実在しなかった運動を観客に認識させるものだからだ。それは、観客の身体にダイレクトに効いてくる。エイミーはそれを、「皮膚の下に浸透していく」みたいなふうにも言う。そう、メディアがそうであるように。

だがエイミーのメディア帝国は、観客の身体を支配しながらも、最終的にそれが観客にもたらすのは、特になにもない。あるとすれば、(これもエイミーの言葉だが)「子供じみた笑い」程度である。エイミーの作品を観ていると、ヘッケッケ!と狂った笑い声をあげたくなって、でも、それで終わり。そこに何も意味はない。動員もしないし、課金もさせない。現世利益的な目的がないメディア支配なので、まるで動いてないエスカレーターに乗ったときに思わず体が前のめりになってしまうように、観客は行き場をもてあました体とともにその場に残される。この絶妙な欠如と残余感こそがエイミーなのだ。そしてその欠如分を、私たちは別の何かに使える余地として残してもらえるし、でも使わなくてもよい。

ちなみにエイミーがいま作ろうとしているのは、「Dizzler in: Maskheraid」という長編だ。既にクラウドファンディングで少し資金を集めていて、少しずつ、完成に向けて進んでいるのだという。あらすじはやはり狂っていて、女性スターのディズラーがコンサート中に目からビームが出て観客200人を殺してしまい投獄。刑期を終えてシャバに戻り、復帰コンサートを行うが…という物語。やはりちょっと普通じゃないが、物語はタブロイド紙のアップから始まる。やはりメディアとの関係が物語の中心にあるのは変わらない。

エイミー・ロックハート「Dizzler in Maskheraid」

エイミーは絵もとてもいいので、彼女の公式ページを覗いてみてください。たとえば犬のやつとか。ちなみに「変態アニメーションナイト ザ・ツアー」では、名作「ジェシカ」を本人が生で吹き替えするというイベントもやります、それも日本語で!

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