繰り返しの魅力
アニメーション版「映像研には手を出すな!」第四話では、同じ動画を繰り返し使うことについて、いくつものやりとりが行われます。
浅草:横スクロールのカット!
水崎:同じ背景繰り返してるねー
浅草:ぐう…屈辱的じゃ
*
浅草:よし!決めポーズは特に切り抜いて、じゃんじゃん尺を引き延ばそう。ぱん、ぱん、ぱーん!
*
水崎:本当はリピートも嫌いなんだよ、なびきも描き送りがしたいんだ
浅草:ゼイタク
水崎:尺が長いんなら、あと一枚だけ!
浅草:おお、変化きたー! 定番メニューに日替わり足してマンネリを避ける、人気食堂の手口ですなー。
いずれの場面でも、繰り返しは、制作時間が足りない中でなんとか尺を引き延ばす手口として語られているように見えます。が、しかし、それはものごとの一側面に過ぎない。「じゃんじゃん尺を引き延ばそう」と言いながら、浅草氏の口調はどこか楽しげです。繰り返しには、ただの労力の節約ということでは語り得ないおもしろさがあるのではないでしょうか。
どんなおもしろさか。「映像研」のOPこそは、それを考えるための格好の手がかりです。なにしろ、第一回で紹介した「ノーマル」の3カットだけとっても、7回も繰り返されているのだから、これはもううってつけの材料というよりほかない。もちろんそこには、コマの省略や反転などさまざまな変化がつけられており、浅草氏のことばを借りるなら「定番メニューに日替わり足してマンネリを避ける、人気食堂の手口」が用いられているのですが、ここで注意すべきは、単に変化がつけられているだけでなく、そこに異なるリリックが乗っているということです。すでに目にしたことのある動画に変化がつけられ、さらには異なるリリックが重なることによって、同じ動画に重層的で多様な意味が生み出される。
どんな意味か。それを今回は、「Easy Breezy」(作詞:Rachel・Mamiko、作曲:ryo takahashi・Rachel・Mamiko、編曲:pistacio studio)のリリックをききながら考えていきましょう。
二つの「き」
さっそくですが
「長続きする気がしない」
というリリックを見て、韻の気配を感じる人はどれくらいいるでしょうか。わたしは感じます。だって。
ながつづ「き」する「き」がしない
ほら、「き」が二回出てくるでしょう?
いや、同じ音が二回出てくるくらいで韻っておかしくない? それ言うなら、「な」がつづきするきがし「な」い、の「な」だって、な「が」つづきするき「が」しない、の「が」だって韻ではないか。いやしかし、ながつづ「き」する「き」がしない、は、ただ同じ音が二回出てくるだけ、というのとはちょっと違うのです。どう違うか。
まず、chelmicoのRachelは、通常なら「な↑がつ↓づき」というイントネーションになるところを、「ながつづ↑きー」と「き」の部分でイントネーションをぴょんと上げ、さらに長音化することによって、この「き」が特別な「き」であることを強調している。ここには他の同音にはない何かあるはずなのです。何があるのか。
実は同じ音韻によって二つの部分が対応するとき、ただ同じことが繰り返されるだけでは、詩を感じさせるには弱い。韻は、ただ同じ音韻を繰り返すだけでなく、そこになんらかの対比的な構造を感じさせて初めて詩となるのです。そして、「長続きする気がしない」には、その構造がある。
「き」する
「き」がしない
ほら、「き」は単に同じ音の繰り返しであるだけでなく、「き」の音をフックに「する/しない」という肯定と否定を対比しているのです。最初の「き」が単語ではなく「長続き」という語の一部であるせいで、テキストの字面で読んだだけではこの対比構造は気づかれにくいのですが、声にして読むと、ほら、わかるでしょう。
では、この部分がどのようにアニメーションとして実現されているかというと、こうです。
「する」という肯定は水崎の動作と、「しない」という否定は浅草の動作と同期しています。「長続き」という忍耐力のいる問題に対して、水崎はあの手この手でどうにかしてしまう、一方浅草はついネガティヴな問題に目がいってしまう。そういう水崎と浅草の対比が、同じ「き」の音をとっかかりに「する/しない」という対比と照らし合わされている。アニメーションは、詩の構造を借りて、キャラクターの違いを浮き彫りにしているのです。
でも、「そんな性格で何が悪い?」。せい「かーく」というときに、浅草氏はぱかーんと笑みを浮かべ、直前のネガティヴなイメージを即座にひっくり返します。このあたりも、突然起き上がって一気に設定を広げ出す浅草の立ち直りの早さが表れているようで、楽しい。
そして、次のフレーズで、わたしたちは、先の「き」のフックが、ただの偶然ではなかったことを知らされます。
す「き」なものはす「き」
肯定と否定を対比する「長続きする気がしない」の「き」は、す「き」という肯定をさらにす「き」と肯定し直す「好きなものは好き」へと裏返るのです。うおー! この、肯定からさらなる肯定の「好き」へと至る過程は、アニメーションではこうです。
最初の肯定の部分で、金森がぐっと目を開けて身がまえ、2度目の全肯定を決める「好き」では水崎が目を閉じて笑むカットが同期されている。実にぐっときます。
さらに続く次のリリック「外野はおだまり」では同じカットをこう使っています。
あたかも門の両側に立つ金剛力士像のごとく、金森がにらむカットで始め、身がまえを効かせるカットで締め、「すき」を守る。鉄壁というより他ありません。
それにしても、金森は何に対して守りを固めているのか。第一回で述べたように下手の仮想敵ににらみをきかせているのでしょうか。いや、どうもそうではありません。
すべて下手へ流れていく
そもそも、「長続きする気がしない~」以降の動画は、第一回で示したノーマル&サイケの単なる繰り返しではなく、そこには重要な変更が行われています。よく見ると、サイケ部分の動画(K2, M2, A2)が、水平方向に鏡反転しているのです(K2’, M2’, A2’)。
描画の労力という点から言えば、ただの水平反転なので、手間はほとんどかかっていません。しかし、ノーマル+サイケの組み合わせの意味は変わってきます。なぜなら、第一回で示したように、これら6つのカットは、下手と上手に対してひと連なりの意味を生んでいたからです。
一回目のノーマル+サイケでは、下手に対するネガティヴなイメージ、上手に対するポジティヴなイメージが生まれていました。ところが、水平反転によって「長続きする気がしない~」からはその意味がかわってきます。「好きなものは好き」の水崎は、あたかもシェーのポーズで下手に対して閉じていた身体(M1)を開いて(M2’)「好き」を表しているかのように見えます。さらに、「外野はおだまり」の金森は、下手を拒絶する(K1)一方で上手ににらみをきかし(K2’)、あたかも上下全方位に対し油断なく身構えているかのように見えるのです。
サイケ部分の水平反転によって、変化するのは身体の向きだけではありません。背景がすべて下手方向に向かい出します。この下手一方向への流れのおかげで、「長続きする気がしない~」以降のリリックは一気に加速感を得ます。いや、背景の流れだけではない。コマ数でいえば、「長続きする気がしない」では1カット17~18コマあったのが、先に書いたように「好きなものは好き」では6~8コマ、「ここ地球ゼログラヴィティ」では3~5コマまで落ち、繰り返しはどんどん短くなっていきます。当然、動画も省略される。金森はもはや遠くからばびゅーんとやってくる間もなくてのひらを返し、水崎はしゃがむ間もなくシェーをして、浅草はただ身構えて目をパチクリさせる。これはまさに浅草氏の言う「よし!決めポーズは特に切り抜いて、じゃんじゃん尺を引き延ばそう」です。「ここ地球ゼログラヴィティ」にいたっては、浅草氏のカットA1がご丁寧にも二度繰り返される。ぱん、ぱーん!浅草氏は、下手へとすべてが流れていく時間の果てで、うろたえたように決めポーズを繰り返すと、心の準備もなく、あのゆるやかに3人が浮遊する「うっさいなぁ 邪魔しないでね」のゼログラヴィティ空間へとフェイドアウトしていくのです。
「もう」で先走れ
さてその無重力空間を抜け、「Easy Breezy」のリリックでもとりわけぐっとくるフレーズがきます。
頭ん中もう完成形見えた
頭ん中もう自由自在
この「もう」がもう! まだ現実には影も形もないのに、頭の空想が止まらない、頭ん中ですっかりできあがってしまって、いかようにも動かすことができて、とにかくこれをこのまま頭から取り出してどんとテーブルにお出ししたい!というあの感じ、未来を先取りしてしまった気になっている浅草や水崎のあの先走り感が、「もう」という完了的表現で完璧に表されている。ここのリリックは本当にすばらしい。
もちろん、頭ん中にあるだけで完成したわけでも自由自在なわけでもなく「描かなきゃなんにもならんわけですよ!(金森)」では、この「もう」の先走り感覚と金森の現実感覚は、どうアニメーションで表現されているのか。
単純にことばとアニメーションを同期させたいならば、カットの位置とリリックの位置を揃えるのが常套手段です。リリックは「頭ん中もう~」のところで一区切りするのだし、しかも小節のド頭なのですから、ここでバシっとカットを切れば、キレのいい演出ができそうに思えます。
ところが実際には、まったく逆のことが起こっています。まだ「頭ん中」も「完成形」も歌われていないタイミング、直前の「なめさしといて~」の末尾のところで、舌を出して何か策謀を思いついたらしい浅草氏の顔が、なぜか前倒しで、ちょこんと左端に現れるのです。そして、浅草氏が自身の策謀のありかを示すように、ぽんと頭を叩くと、ポケットの中からビスケットが一つ、いや、頭の中からがらくたのような妄想アイコンが一つ二つ三つ。このときようやくリリックが遅れて始まります。「頭ん中もう完成形みえた」。
アニメーションの浅草氏は、「頭ん中もう完成形みえた」ということばよりも先走って、「もう」頭ん中のがらくたを披露し始めているのです。
そこに今度は水崎。浅草氏のリリックというべき「完成形みえた」の「た」のところから早くも画面右端に割り込んできて、やはり頭をぽんと叩くと、がらくたのような妄想アイコンが一つ二つ三つ。そしてようやくリリックが遅れて始まります。「頭ん中もう自由自在」。
水崎もまた、頭ん中もう自由自在、ということばよりも先走って、「もう」頭ん中のがらくたを動かし始めているのです。
ここで、浅草の「もう」と水崎の「もう」で膨らみすぎた空想画面を裁ち切るかのように、金森が左端に現れます。金森は「自由自在」の「在」のタイミングで冷酷に水崎の妄想画面をクリアすると、「心の網目細かくして」というリリックとともにまるで金の切れ目が心の切れ目だといわんばかりに、四角四面の計算づくアイコンで画面をみるみる埋め尽くしていきます。
つまり「頭ん中もう~」以降、アニメーションはリリックに対して先走ることによって、現実よりも先走る浅草と水崎の頭の中を表す一方で、〆切よりも早く貴様らをPC室に呼びつけ、破綻しかねないスケジュールを先回りして2人を追い込む金森の冷徹な計算高さを表すのです。
最強の世界
そして、注目すべきは次のリリック「最強の世界できちゃってるわな~」のタイミングです。
ここまで小節のド頭から始まっていた「頭ん中」「頭ん中」「心の網目」というフレーズに対して、「最強」ということばは小節の頭に対して前乗りで発せられ「きょう」の音が一拍めにきます。そして、ここまでリリックに対して前乗りで発進してきたアニメーションは、この「最強」の「強」に狙いを定めるかのように、小節のド頭でバシッとカットを決めたかと思うと、妄想アイコンを画面一杯に渦巻かせる。まさに「最強の世界」が、最も強めのタイミングで成就するのです。
バックトラックにも注意しましょう。この曲のスネアは、「はい始まった」とリリックが始まるや、金森が団扇を使うがごとく、1拍めと3拍めの直前にザッという装飾音を入れ、リリックを可能な限り煽って効果を最大限にしています。ところが装飾音は「頭ん中もう完成形みえた」からは消え、スネアはタイトなアタックとなり、まさに「完成形」をイメージさせる音像へと変化します。一方で、拍頭に先立つ装飾音が消えることで、音楽自体の与える先走り感が消え、アニメーションの先走り感が浮き立ちます。
かくして「最強の世界」が宣言されると、バックトラックからはドラムの音が消え、聞き覚えのあるディストーションのきいたギターのフレーズが再び鳴り響きます。ここに至って、わたしたちは、冒頭のあのギターの音こそ、3人の「最強の世界」がこの世に顕現する音だったことに、ようやく気づきます。3人の思考を示すアイコンたちが渦を巻き始めている。タイトルが一文字ずつ明らかにされてゆく。
そして二度鳴るクラップ。いよいよ今週の「映像研には手を出すな!」が始まります。