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オープニングで考えるアニメーション
「映像研には手を出すな!」の巻(2)

細馬宏通 細馬宏通 Feb 27 2020

細馬宏通さんによる連載「オープニングで考えるアニメーション 」の第2回、前回に引き続き「映像研には手を出すな!」のOPについて。今回は3人「舞い」のノーマル部分について、「コマ打ち」という観点から考え直していきます。

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コマ打ちで考える

前回は、「映像研に手を出すな!」OPの前半で登場する3人の「舞い」が何を表しているかを考えました。今回はその同じ「舞い」のノーマル部分について、「コマ打ち」という観点から考え直してみましょう。

「映像研」も含め、多くのTVアニメーションでは1秒を24コマに分割して絵を描いています。ただし、1コマに1枚を「1コマ打ち」で描くとは限りません。2コマに1枚(2コマ打ち)、あるいは3コマに1枚(3コマ打ち)…という風に枚数を減らすことで、描く手間を少なくする場合もあります。ときには一定間隔でnコマ打ちするだけでなく、間隔を不規則にすることで思いがけない動きを出す「乱れ打ち」で描くこともあります。

よくアニメーションのコマ打ちの説明として「ディズニーは1コマ打ちで描く「フルアニメーション」だが、日本のアニメーションは「鉄腕アトム」以来、何コマかごとに1枚を書く「リミテッド・アニメーション」である」といった書き方がなされることがあります。枚数という点では全くの間違いというわけではありませんが、1コマ打ちはきめ細かくて、2, 3…と数字が上がるにつれて表現が粗くなるという意味で「リミテッド」ということばを使うとしたら、それは正確ではありません。

昨年出た好著「アニメ制作者たちの方法――21世紀のアニメ表現論入門」の補足記事で、アニメーターの井上俊之は、単なるコマ打ちの数字だけでなく、「動きの幅」や「動きの種類」によっても質が変わることを指摘しています(アニメの「コマ打ち」とは何か──井上俊之が語る「コマ打ち」の特性)。少なくとも、表現が粗くて乏しいという意味でnコマ打ちを「リミテッド」と呼んでしまうと、こうした問題が抜け落ちてしまうことになるのです。

さらに、アニメ作品は必ずしも一定のやり方でコマ打ちされているとは限りません。一つの作品、いや一つの場面の中でさえ、複数の打ち方が混在し、多様な表現が行われていることがあります。コマ打ちという技法からアニメーションを考えるときは、単に「フル/リミテッド」の区別をしたり何コマ打ちかを調べるだけでなく、そこでの動きの量や質がどうなっているか、どのような技法が混在しているかに注意を払う必要があるでしょう。

ではここで問題。前回紹介した「映像研」のOPの3人の舞い(ノーマル部分)で、金森、水崎、浅草の動きはそれぞれ異なるコマ打ちで描かれています。誰がどのコマ打ちで描かれているか、左と右を線で結んで下さい。

金森(K1)        1コマ打ち
水崎(M1)       2コマ打ち
浅草(A1)        乱れ打ち

少しヒントを。ドスのきいた低い声と態度で映像研のマネジメントを司る金森、読者モデルで活躍するいっぽう人やものの動きに魅せられその表現を極めようとする水崎、表に出るのは苦手だが設定を空想し始めると詳細な世界観を描くまで止まらない浅草は、それぞれのキャラクターにふさわしい表現で描かれています。では、正解は改行後に。

異なるコマ打ちが異なる動作の特徴を表す

さて、正解は、

金森 ────── 1コマ打ち
水崎 ────── 2コマ打ち
浅草 ────── 乱れ打ち

でした。

意外なことに、いちばんドスがきいていて動きが大胆そうな金森が1コマ打ちで描かれている。しかし、実際の動画を見ると、1コマ打ちとはいえ、単にどこもかしこも細かいわけではないことがわかります。まず最初の2コマで金森は遠くからとんでもないスピードでどアップになるとともに、視聴者を制止するかのように左手をぐっと突き出します。論理と恫喝で相手を屈服させる金森の交渉術を彷彿とさせる大胆な動き。そこから一転、両腕を横に構えてからの彼女の動きは繊細になります。特に細かいのは、両腕をほぼ構え終えた後、両手の掌をくるりと返すところ。これが1コマ打ちでじわりと表現される。初動の衝撃的な表情とは対照的なこの「てのひら返し」によって、金勘定やスケジューリングに細かい金森の「手先」感が印象づけられます。

いっぽう水崎の動作はひときわ大胆。頭の後ろにあった右腕は左にばーんと突っ張られ、胸元で拳を握っていた左腕は垂直に上がり、最後はシェーのポーズになる。このポーズを決める直前に、あえて深く体をかがめるので、体を上に伸ばしたときの動きの移動が大きくなり、勢いがばーんと出ます。掌の表現にも注意しましょう。親指の位置がはっきり描かれることによって、一つ一つのポーズで掌の向きが激しく切り替わっていることが見てとれる。これを動画としてパラパラ見ると、単に腕全体を振っているだけでなく、手首を頻繁に裏返すコミカルな動きに見えます。さらに、これらの激しい運動は、1コマ打ちで細かく描くのではなく2コマ打ちでとばして描かれているので、めくるめく速さが生まれる。動画の中で思いがけない姿勢に迂回することで移動距離を大きくとるこの動きは、ちょっと金田伊功を連想させます。そういえば本編第四話で、煙の表現に悩んでいる水崎に、浅草が先人たちの作ったさまざまな動画を見せる場面があるのですが、その中にも金田伊功を思わせる例がありました。

そして、挙動不審な浅草氏の動作は、1コマ打ちと2コマ打ちを混ぜた乱れ打ちです。下手に向かって両腕を身構えてからカンフーアクションっぽいく体を反転させる過程が1コマ打ちと拡大縮小の合わせ技で描かれるのですが、もし練達の武術家を描くとしたら、アクションを大きく取りながらも下手の敵に対して目を離さないように顔を安定させるところでしょう。なのに浅草は、まるで急に恐怖にかられたように、体とともに顔までも上手に反転してしまい、しかもあろうことか完全に目をつぶってしまう。反転の瞬間は1コマで描かれる一方、目をつぶる瞬間は1コマではなく2コマ打ちになってるので、「あれ? 急に顔をそむけて、目つぶっちゃったな」という感じが出る。さらにそこから、思わず目を不安そうに開けて下手をうかがったところでポーズ。大胆さがすぐに小心に裏返ってしまう浅草の性格が、うまく表されています。

このように、「映像研」OPでの3人の舞いには、それぞれ異なるコマ打ちの技法が用いられており、それによって3人それぞれの動作の特徴を表し、キャラクターの個性を浮かび上がらせているのです。

コマ打ちのもたらす揺れとフロウ

ここまで、3人それぞれの舞いのカットについてコマ打ちという技法を考えてきましたが、ここで別のカットについても考えてみましょう。それは、3人のシルエットが並んで踊るきらきらステッカーを用いたカットです。

このきらきらカットは「誰に頼まれたわけでもないのに」で始まる部分、そして「うっさいなぁ 邪魔しないでね」で始まる部分の二箇所で用いられています。色味の印象が似ているので、ついただの繰り返しとして扱ってしまいそうになりますが、実は二つのカットはかなり異なる性質を持っています。

まずステッカーの用いられ方が違います。「誰に頼まれた」カットでは、3人は単色のシルエットで描かれておりバックの方がきらきらしていますが、一方「うっさいなぁ」カットでは、3人の方がきらきらしており、バックが無地の単色です。

そして何より違うのは動きです。「誰に頼まれた」カットは比較的移動距離の大きい動きを2コマ打ちにしているのに対し、「うっさいなぁ」カットでは、ゆったりとした動きを3コマ打ちにしています。そのため、前者はびりびりと揺れるような印象を、後者はゆっくりと浮遊するような印象をもたらします。ちなみにわたしは前者で歌われている「止まらねー筆」というリリックを「止まらねー揺れ」と聞き違えてました。たぶん映像の動きに聞こえ方がキャプチャーされてしまったんですね。

後者の「うっさいなぁ」カットの持つ浮遊感は、直前の映像とリリックと対比されることによって、さらに独特のフロウ感を感じさせます。というのも、この直前の映像ではとんでもない加速が起こっているからです。「長続きする気がしない」以降、3人の舞いがどんどん加速していき、最初は1カット17コマで交代していたのが、最短3コマまで切り詰められ、2コマ打ちだった水崎のカットも乱れ打ちだった浅草のカットも1コマ打ちへと圧縮されます。そのため、3人の舞いは異様な早回しへと昇華していくのですが、その早回しの果てに、絶妙なリリックが来ます。

きみ無責任 ここ地球ゼログラヴィティ

chelmicoが唱える「(きみ)無責任」と「(ゼロ)グラヴィティ」という韻とともに、金森・水崎・浅草のカットに継ぐカットが最高速に達したその直後、わたしたちは3人がゆったりと3コマ打ちでフロウする、無地かつ無重力の宇宙空間へと放り出されるのです。邪魔しないでね。

(つづく)

細馬宏通

早稲田大学文学学術院・文化構想学部教授。日常生活やメディアにあらわれるさまざまな声と身体の動きを研究している。著書に『いだてん噺』『今日の「あまちゃん」から』(河出書房新社)『ELAN入門』(ひつじ書房)、『二つの「この世界の片隅に」』『絵はがきの時代 増補新版』『浅草十二階 増補新版』(いずれも青土社)、『介護するからだ』(医学書院)、『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』(新潮社)『うたのしくみ』(ぴあ)など。