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作品を作るってことは、熱意を伝えること。
「重力猫」の柳沢翔監督インタビュー

kana Feb 16 2018

「重力猫」「Pokémon GO」資生堂の「ハイスクールガール」など、話題性のあるCM作品をクリエイトする柳沢翔さん。現在はTHE DIRECTORS GUILDに所属しており、2014年には初長編映画を手がけ、昨年は海外のプロダクション3社と契約するなど大躍進中だ。下積みの制作&見習い時代の話、「ハイスクールガール」制作の舞台裏、そして映画への想いを聞いた。

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社会不適合者の烙印を押された制作会社時代

ーアメリカのミネソタ州で幼少期を過ごし、「ミュータント・ニンジャ・タートルズ」や「ガーフィールド」の絵を描いて言語の壁を乗り越えてきた柳沢さん。多摩美術大学では油絵を専攻し、絵画とヒップホップを通して、社会とつながる大切さを体験したそうですね。そんな柳沢さんが、映像ディレクターの道に進もうと思ったきっかけは?

ずっと話は遡るんですが、“社会とつながっていたい”と思った大きな体験が2つあって。ヒップホップが好きで、美大仲間でライブペイント✕DJのイベント「輪派(りんぱ)」というのを主催していたんです。その流れで、水戸市で行われていた「X-COLOR」というグラフィティライター主催の大きなイベントに行ったんですけど、その時にショックを受けたんです。彼らは自分たちの「好き」というエモーションだけで、こんな大きなムーブメントを作っちゃってる。僕たちが大学で学費を払って絵を学んでいるよりも、純粋で力強く感じたんです。「オレらフェイクだな。あかん」と思って、よりグラフィティにハマって。

中でも、グラフィティアーティスト集団「バーンストーマーズ」の映像が好きでした。自分たちもライブペイントを映像に残してみようと、「輪派絵師団」という名前で活動を始めました。その頃から、「映像おもしろいな」と意識するように。僕は立ち上げ初期で就職して抜けちゃったんですが、輪派絵師団はアメリカのABCニュースに取り上げられたり、ロンドンや中国でイベントをやったり、世界中でバズってましたね。

デヴィッド・エリス率いるバーンストーマーズの代表作「LETTER TO THE PRESIDENT」。10メートル四方くらいの巨大キャンバスに、グラフィティを描いては消し、その様子を天井から定点カメラで撮影した作品。大統領へのメッセージを綴った社会的なメッセージが込められている。

ーもう一つの体験というのは?

学生の頃、「自分の絵は売れるのか?」とずっと疑問を抱いていました。10万円なのか、1万円なのか、1円の価値なのかもわからない。ずっとモヤモヤしてた。村上隆さんが学校に講義に来た時にその悩みをぶつけてみたところ、「日本のアート業界は清貧が美徳で、絵画に価値をつけることをオブラートに包んでいる。学校ではそういうことを教えてくれないから、社会と繋がらないとダメだ」と。それで、村上さんが主催していた「GEISAI」というアートコンペへの出展を勧めてくれました。

GEISAIではブースを買って、自分の作品を自由に展示していいんです。一般の来場者が買ってくれるかもしれないし、素通りされるかもしれない。そして、思い切って出してみました。初めて自分の作品が一般の人の目に触れて…見事に素通りされた。自分的には「絵画って何だろう」っていうことを言おうとしていたんですが、1ミリも引っかからない。でも、すごくスッキリしたんですよね、「オレの作品は0円なんだ」って。やっと当たり前のことに気づくんです。キャンバスがちゃんと貼っていないと商品価値がないとか、壮大なテーマや社会へのメッセージよりも下地剤が剥がれている方が見てる人は気になるんだ…とか。

3回目に出展した時の審査員は、日比野克彦さんと浅野忠信さん。その時の作品は、銀箔を硫黄で焼いて、その上に日本画で野良犬を描いたもの。自分で作った曲を流しながら展示していたら浅野さんが立ち止まってくれて、日比野さんを呼んできてくれたんです。そして銀賞をもらった。自分の作ったものが、価値があると認められた気がしたんです。何者でもなかった自分が、モノを作ったことで社会と繋がった気がした。

GEISAIで銀賞受賞した作品

そこから何が変わったかというと、「意識」ですよね。自己表現は絵でできる自信があったから、体力があるうちはもうちょっと社会と繋がってることをしてみたいと思ったんです。それで広告の仕事に興味を持ちはじめて。

柳沢翔(やなぎさわしょう):映像ディレクター。THE DIRECTORS GUILD所属。1982年鎌倉生まれ。2016年資生堂「High School Girl?」がカンヌライオンズ、Clio Awards、One Showの世界三大広告祭でゴールド受賞。翌年、SIE「GRAVITY DAZE2/重力猫」が同じく世界三大広告祭でゴールド受賞。PRETTY BIRD(US)、BLINK(UK)、INSURRECTION(FRANCE)に所属

ーそして、東北新社へ就職されていますよね。

本当にミーハーな感覚で、広告業界でいろいろ派手な映像をやりたい、って思いだけでしたね…。間違って東北新社に入ったんです。

ー間違って??

本当に無知で…。就職期間中、ピラミッドフィルムとTYOの演出部にも引っかかったのですが、東北新社の制作部に決めました。制作部と演出部の違いすらわかってなくて…。給料とか休暇日数が判断基準で。東北新社に決めて他社にお断りをしたところ、「差し支えなければどこに受かったのかお聞かせ願えますか?」と聞かれたので、「東北新社の制作部です」って答えると、「演出部じゃないんですか?」というリアクションが返ってくる。「ええ、(モノを)制作したいので」みたいな(笑)。制作って、美大用語だとモノ作りって意味なので、みんなでワイワイ、小道具や美術とか作るんだろうな〜ってワクワクしてた。完全にアタマがお花畑でした…。

入社して一番に言われたのが、「スケジュール管理と予算管理」。油絵科が一番できないことですよ。結局、1年半で退職しました。自分が普通に社会生活が送れないタイプの人間だってことが、よくわかりました。時間通りに行けない、人の言うことが聞けない。根本的なことが欠落しているんです…。

ー怒られてばっかりでした?

今でも語り草になっているエピソードがあるんですね。入社3ヶ月目。出社したら、僕の机にminiDVテープが輪ゴムで8本まとめられていて、その上に紙が置かれていました。それには「電通のXX局のXX様までバイク便で届けておいてね」という先輩からの指示。それを見て「なるほど、届けるのね」と、僕はその先輩の紙だけを封筒に入れて、バイク便で飛ばしたんです。殴り書きのメモを4,000円かけて…。でも、その時点ではまだ気が付いてないんです。ぼ〜っと先輩が来るまで待っていました。しばらくして、風邪をひいた先輩が出社して、

「お前、バイク便出した?」
「はい」
「このテープ何?」
「あれ? これ何でしたっけ」

そしたら先輩に電話がかかってきて、

「ええ、はい、はい。え? 紙が? バイク便で届いている??」

とか言ってるんですよ。その後、鬼ブチ切れられて、説教が終わる頃には先輩の風邪が治ってました(笑)。めちゃくちゃ元気になってました。で、風邪治って良かったですね、とか僕が言うから、さらに怒られて…。

ー実際、そういう時ってどういう気持ちなんですか?

意識はあるんです。ああ、やってしまったな。自分はみんなができることができないんだな、と。そう思っているから、会社にいる時は常に緊張してるんです。「あいつ、今立ち上がったけど、これって俺も立ち上がるタイミングなのかな?」とか。もうその時点でダメですよね。挙動不審以外の何者でもない感じ。

ーそんな時代があったんですね。

今でもそんな感じですけどね…。1年間の新入社員研修が終わって、本配属の日。当時の東北新社では、ルーム長がドラフト制でほしい人を指名する仕組みだったらしいんです。そりゃあ、ちょっとは心配していましたよ、「オレのこと指名してくれるルームってあるのかな」って。同期は20人ぐらい。その日は本当に重要で、その後のキャリアが決まると言ってもいい。みんな、派手な仕事をしてるルームに行きたいと思うわけですよ。

張り出された大きな紙を見て、みんなが一喜一憂している中、僕だけ名前がないんですよ! 最初は冗談かなって思いました。もしくは間違いかと。

「あれ~、先輩、僕の名前が…」

と聞いてみたところ、

「あ、お前はあっち…」

みたいな感じで指差す方を見たら、B5サイズのちっちゃーい別紙が貼ってあるんです。「柳沢翔 サーマル配属」って書いてあって。東北新社に受かったのに、本配属が系列会社だったんですね。

その時はよくわかってなかったからショックでしたね。同期に相談したりとかして。でも、サーマルに行ったから、今の僕があるんです。宮下俊社長率いる少数精鋭の制作会社。手がけている仕事が全部大きくて、すごい活気もあって。当時の僕にはサーマルはエクスペンダブルズ(シルヴェスタ・スタローン主演映画)に見えましたね。

こんな凄いところになんで僕が呼ばれたんだろうって疑問でした。配属早々、宮下さんに「柳沢は企画と制作の両方やって」と。宮下さん的に僕をどう育てるかプランを考えてくれてました。

色々貴重な経験ができましたよ。井口弘一さんなど、有名なディレクターの方々の仕事ぶりを間近で見れたことも、とても勉強になりました。

そんな日々を過ごしていたある日、東北新社の同期と飲んでたら「これ見た?」って、広告批評に掲載されてた「THE DIRECTORS GUILD」の募集要項を見せてくれたんです。そこには「監督が監督を育てる会社です。監督になりたい人大募集!」と書いてあって、「これは自分に必要なやつだ」と思って、すぐに応募しました。

企画テストを3回、面接を3回くぐり抜け、無事にディレクターズファーム(監督の養成学校のような場所)の1期生になることができました。そこで人生が変わるんです。

ー3年間のファーム時代のお話を聞かせてください。

ギルドは5人の監督が設立した組織ですが、師匠と弟子みたいな関係なんです。3ヶ月交代で、各師匠の付き人のようなところから始まりました。会社じゃないので給料はナシ。仕事は自分で取ってくるシステムだったので、とにかく貧乏でした。修行時代は年収20万円ぐらい。でも強みと言えば、ファームのシステムを面白がってくれる人から、変わった仕事の相談が来ること。それで「Vish」というアーティストのCDジャケットとライナーノーツ、ポスターとMV、制作費とギャラ諸々全部込みで予算15万円という仕事をしたり、コマ撮りの映像をひたすら作ったり。ジャポニカ学習帳の仕事で、頼まれてもいないのにミニチュアを作って、ポップアップブックを作ってみたり。お金はまったくないけど、とにかく時間はありましたから(笑)。

YouTubeで、そうやって細々と作った映像を見つけてもらい、森本千絵さんに誘われたMVで予算が変わりました。いきなり100万円に増えたんです。そうやって自分のリールが少しずつ揃ってきたところで、ジョージアのCMコンペの話が来るんです。奇跡的に選んでもらえて、CMの仕事が少しずつ増えていきました。

ー修行時代、制作の時と違って、辞めなかった理由は?

何だかんだ、必要とされたからかな。師匠たちの仕事も大きなものばかりで刺激になった。でも、どこかで向いてないとも思ってましたよ。企画ができないから。僕は予算のない中でMVを作ったり、自主制作でコツコツやったりしてきた延長線上にいるんです。

ーそれでも今は売れっ子監督ですし、企画性の強いCMを手がけていますよね。

その時代に学んだことが1つあるんです。当時は、演出ではなく企画の仕事ばかりでした。でもアイデアを出しても通らないし、次の打ち合わせには呼ばれない。繋がらないんです。アイデアがつまらないってことなんだと思って、自信を喪失してたんです。「俺は頭が悪いし、才能もない」って。

でも、ある日の打ち合わせで世間話をしていた時、下ネタの話になったんですよ。ちょっとウケたから、今の極貧状況もネタにして話したんです。他に話すことがないから(笑)。そしたら、めちゃくちゃ面白がってくれた。こんな話がおもしろいんだな〜って思ったんです。僕にとっては日常ですからね。その時も結局、アイデアはボツだったんですが、初めて次の打ち合わせにも呼んでもらえた。

そこで肩の荷が下りたというか、結局、企画はできて当たり前。でも次に呼ばれるかどうかは、自分自身がその場にいる人とどれだけコミュニケーションがとれるか。「あの人と一緒にモノを考えたら楽しそうだ」。それがファーストステップなんだなと、身をもって感じたんですよね。才能とは違うところで仕事は繋がっていくんだ。作品の良い悪いは、もう自分でがんばればいいだけなんだ、って。心が軽くなったのを覚えています。

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