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「大人のためのグリム童話 手をなくした少女」劇場公開記念
セバスチャン・ローデンバック・片渕須直トークイベントレポート
<前編>

土居伸彰 Aug 16 2018

8月18日(土)からユーロスペースほか全国劇場で公開を予定している長編アニメーション「大人のためのグリム童話 手をなくした少女」。NEWREELでは先行上映会で行われたセバスチャン・ローデンバック監督と片渕須直監督によるトークショーの模様を前後編でお送りします。

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8月18日より全国公開が始まるフランスのアニメーション「大人のためのグリム童話 手をなくした少女」は、筆絵による空白を大胆に活かした独特のスタイルを用い、長編であるにもかかわらずセバスチャン・ローデンバックがすべてひとりで作画したことが話題になっている。

本作は、カンヌ映画祭でのプレミア上映をはじめ、アヌシー国際アニメーション映画祭でのW受賞(審査員賞&最優秀フランス作品)など、世界的に高い評価を受けている。ただし、単に「芸術的」であるだけではない。父親の裏切りにより両手を失うことになった少女の運命と解放を描く本作は、グリム童話の知られざる原作を現代風に解釈した「新時代の女性映画」として、さらには観客自身の人生のあり方を後押しするようなエモーショナルな作品として、既に観た人たちの心に熱い気持ちを宿している。

7月、東京藝術大学大学院映像研究科アニメーション専攻主催の「コンテンポラリー・アニメーション入門」のために来日したローデンバック監督を迎えて、渋谷・ユーロスペースにて先行上映会を行った。その際、スペシャルゲストに「この世界の片隅に」の片渕須直監督をお招きし、2人のトークショーを開催した。司会はこの記事の筆者であるニューディアー土居伸彰。今回は、そのトークショーの模様を2回に分けてお届けしたいと思う。

大人のためのグリム童話 手をなくした少女(原題 La Jeune fille sans mains / 英題 The Girl without Hands)2016年/フランス/76分/DCP

「手をなくした少女」と「この世界の片隅に」の共通点

土居伸彰(以下、土居) 本日はお暑いなか、「大人のためのグリム童話 手をなくした少女」の先行上映会にお越しいただきありがとうございます。私、本作品の配給を担当しております、ニューディアーの土居と申します。今回、東京で先行上映をできることとなりましたので、本作品を手がけたセバスチャン・ローデンバック監督と特別ゲストをお迎えいたしまして、トークを行っていきたいなと思います。それでは、さっそく監督をご紹介したいと思います。セバスチャン・ローデンバック監督、宜しくお願いします。

セバスチャン・ローデンバック(以下、ローデンバック) 今日はみなさんにお会いできてすごく感動しています。この映画館で今日初めて上映できるというのは、作品にとっても私自身にとっても、非常に重要なことです。みなさんが作品をご覧になってどういう風に思われるのか非常に興味深く思っております。

土居 それでは早速なんですけれども、本日のスペシャルゲストをご紹介しようと思います。「この世界の片隅に」を始めとする、素晴らしいアニメーションを作っていらっしゃる片渕須直監督にお越しいただいております、みなさん拍手でお迎えください。

片渕須直(以下、片渕) よろしくお願いいたします。

土居 さっそくなんですが、今回、片渕監督にお越しいただきたいと思ったのは、監督の代表作ともなった「この世界の片隅に」と、この「大人のためのグリム童話 手をなくした少女」が、共通点の多い作品なのかなと考えたからです。まずは、率直にこの作品の感想についてうかがってもいいですか?

片渕 とかく、僕たちは日本でアニメーションを作っているんですけど、こんなにも自由に表現を生み出すっていうことに対して、発想がまわらないような気がするんですね。我々が作っているものというのは、言葉がきついかもしれませんが、既に経済化してしまっているというか……そこへ何か新しい風を吹き込んでいただいたようで、ものすごく刺激的でした。我々はこういうものを受け止めていかなければいけないんじゃないかとも思い、ローデンバックさんのことを応援する意味でも、この作品が受け入れられるように何か手助けができたらと今日はこちらへやってきました。

土居 片渕監督のコメントを聞いて、ローデンバックさんはどう思われましたか? ローデンバックさんは「この世界の片隅に」をご覧になっていて、かなり気に入ってらっしゃるということで。

ローデンバック 私は「この世界の片隅に」を観たとき、非常に動揺しました。たしかに共通点がいっぱいあるんですね、私の作品と。もちろん、同じ物語ではありませんし、物語が展開する時代も違うんですけれども、ただどちらも主人公が少女であり、まわりの社会的な抑圧によって、必ずしも彼女が生きたいと思っていた場所ではない場所に行くという物語なんです。デッサンや演出も非常に繊細ですし、本当の意味での「映画」に立ち会っているという感動がありました。そして、苦しみや痛ましさ、恐怖というものを非常に繊細に扱っていらっしゃる。私たちの二つの作品の間には、主人公の少女がどちらも手をなくしてしまうという共通点があるんですが、それ以上にアニメーションという表現方法100%フルに使って、人間という営みを深く描くという試みがどちらの作品にもあったと思います。

「自由な」アニメーション

片渕 ありがとう、セバスチャン。去年、僕は「この世界の片隅に」をフランスで紹介するというので、南フランスのヴァランスというとこへ行ったんですね。アニメーションの教育施設を兼ねたスタジオを訪れた時に、この「手をなくした少女」のポスターが貼ってあったんです。実はそのスタジオ(フォリマージュ・スタジオ)というのが、この作品の原型となるアニメーションの制作に協力していたそうなんですね。だけど、そのころはもっと「普通」のものだったそうで。でも、スタジオの彼らも「この作品は自分たちが携わったものなんだ」と凄く誇りを持っていて印象的でした。そんな形でこの作品と出会って、何か繋がりみたいなものを感じたんです。
昨日、東京藝大の講座(「コンテンポラリー・アニメーション入門」)で、これまでローデンバックさんが作ってきた作品についての紹介と解説があったんですが、非常に衝撃的だったのは、やっぱり、一人で作っているということですね。この作品もローデンバックさんが一人で描いて、一人で動きをつけて、できるだけ速く描くためにこのようなスタイルになったという話で、びっくりしましたね。

ローデンバック ありがとうございます。先ほど、非常に自由な作品だとおっしゃっていただきまして、たしかに、私がこの作品を作っていた状況というのは本当に自由に作れる環境だったと、自分自身が思っています。私にはお金がなく貧乏だったからこそ、自由でいられたんだと。私にはプロデューサーもいませんでしたし、私にプレッシャーをかける状況がなかった。ある意味で、私はこの映画で描かれている少女と同じような境遇にいたと思います。この映画で少女は自分自身の庭というものを作るに至るわけなんですけど、少女がその道を辿ったように、私もこの映画作りを通してそういう道を辿ったのだと思います。
さっきおっしゃっていただいたように、たしかにこの作品は元々は全く違うような方法、違うビジュアルで作るはずの作品でした。その段階では、周りからのプレッシャー、制約というのが大きくあったんですね。みなさんご存知のように、アニメーションは100年前からずっと同じような言語で作り続けられていて、最初のバージョンではそうなるはずでした。元々作るはずだった最初のバージョンでは、プロデューサーがいて、脚本もありましたし、フォリマージュというスタジオと一緒に仕事をするはずだった……つまり、この作品の中の城に閉じ込められた少女のような状況に私はいたわけです。
しかし、運命のような瞬間が訪れ、元々最初に作るはずだったバージョンの企画は頓挫し、諦めざるを得ない状況になりました。結局、まったく違う形で作品を作らなければいけなくなった私は、一人で非常に自由なやり方で作ったわけなんですけど。
ただ私自身はどうやって作ったかには興味はないんです。それよりも、そういうやり方を選んだことで、映像がどのような言語を獲得したかという結果に興味があるんです。その点で、私と片渕さんの作品の間には非常に共通点があると思っています。描かれているテーマ、主題以上に、アニメーションの映像言語を新たに発見しているという共通点があるんじゃないかと思います。

描くことで紡がれる物語

片渕 今のお話を聞いて、すごいよくわかりました。今日、うちにたまたまあったグリム童話集を持ってきたんですけど原作って、たった数ページなんです。

土居 手なし娘」ですね

片渕 この分量が長編になるのは本当にすごいことなんですが、冒頭は比較的、元々童話集の中にある文章をそのまま肉付けしているわけなんですが、セバスチャンが一人で描いてるから、描きながらどんどんどんどん即興性が加わっていっているんです。原作では川の女神はいなかった、でもあの川をどうにかして渡らせなければいけない時に、描きながらどんどんどんどん思いついたそうなんですね。そして一番最後のシーンは、もう完全に原作にない展開です。
最後、あらゆる束縛から逃れて自由になっていく様子、それこそがこの作品の制作姿勢のように感じるんですね。どんどんどんどん逸脱していって、自分の自由を得ていって、即興性で物語を書き換えていく……それを最終的に表している気がするんですね。

ローデンバック 今おっしゃっていただいたことというのは、私がまさにこの作品を作りながら感じていたことでした。大抵の場合はアニメーションの作画という作業は、それまでに準備していたことを実行する、それだけの作業なんですね。準備というのは例えば脚本であり、ストーリーボード、絵コンテであったりと、準備していたものを単に実行に移すだけというのがアニメーションを作るプロセスなんですが、私自身はそこをもう一度疑問視してみたんです。アニメーションを作る作業、人物を動かすという作業をその制作のプロセスの中心に置き直してみたんです。
私は、この作品を物語の時系列に沿って頭から順番に作画していったため、まるで私自身が登場人物であるような、私自身が物語の中で生きていたような感覚がありました。つまり、私がこの作品の俳優であり、観客であるようなイメージでこの作品を作っていたんです。そうやって作品を作るというのはとても快感だったんですね。私はこれから同じような作り方でアニメーションを作り続けていくかわかりませんけど、こういうやり方で作れたことはとても幸せなことだと思います。

片渕 さっき、ここに入るまえ、裏ではお互い家計の話をしていて、どのくらい貧乏な時期がありましたかっていう話をしていたんですけど。

土居 お二人とも、金銭的な困難も含め、一つの長編にいくまでのすごく長いプロセスを辿っていたというのも共通点であり、結果として、「鬼気迫る」ものが出来上がったわけですね。

ローデンバック 先ほど裏にいた時に話していたことなんですが、片渕さんの作品もそうだし、私の作品もそうだし、高畑勲さんの「かぐや姫の物語」も含めて、たった短い数年間の間に作られた三つの作品に大きな共通点があるということを、「何故なんだろう」と自問自答しているんです。つまり物語の中心に少女がいまして、その少女が社会的な制約のある状況を生きている。その中で自分自身が自由な生き方を見つけるために他の場所へ行き、自由を求めようとする……そういう物語が共通しているんですね。そしてしかも、(三つの作品はいずれも)アニメーションを作るという中にまったくの新しいやり方、方法と言うものを発明していて、それがその作品の中心を成している。その発明は(いずれの)作品にとても強い印象を与え、驚きをもって迎えられた。これは何故なんだろうというふうに、自問自答しています。(後半へ続く)

セバスチャン・ローデンバック・片渕須直トークイベントレポート 後編は8月20日(月)公開予定

アニメーションの配給やイベント企画・運営等を行うニューディアー代表。新千歳空港国際アニメーション映画祭フェスティバル・ディレクター。著書に『個人的なハーモニー ノルシュテインと現代アニメーション論』『21世紀のアニメーションがわかる本』(ともにフィルムアート社)

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