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メディアアーティスト山形一生が手がけたMV
角銅真実「窓から見える」

gabin Oct 3 2017

音楽家で、打楽器奏者の角銅真実さんのミュージックビデオを、若手メディアアーティストの山形一生さんが手掛けた。

dir:
Issei Yamagata
m:
Manami Kakudo
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角銅真実さんという打楽器奏者がいます。

ceroのライブのサポートをしていますので、そのプレイを見たことある人は多いかもしれません。

その角銅さんが、今年7月にアルバム「時間の上に夢が飛んでいる」を発表して、アルバムの中から「窓から見える」という曲のMVが制作されました。

このビデオが非常に印象的というか、MVとして見たことない質感をもったものでした。

事故かと思えるくらい黒みの多い画面レイアウトから、覗き見ている部屋のような場所。現実味のないカメラワーク。ディレクターの名前を見ると、若手のメディアアーティストの山形一生さんの制作によるもののようです。

このような、いわゆるMVの文法とはまったくちがった文法を持つ作品が、いかなるロジックとテクニックで作られるに至ったのか?

軽い気持ちで山形一生氏に問い合わせたところ、思いがけず非常に丁寧なメールを何通かにわたって頂戴しました。

私からメールで投げた質問は

・あれは映像的には山形さんの作品の系譜に連なるものなんでしょうか?
・そして角銅さんからどういった依頼でこの仕事がきて、
・そしてどうした思考・プロセスを経てこうしたMVが出来上がったのか?

と、いうもの。

以下はその内容です。

一通目。

まず簡潔に山形一生がどういった活動をしているかというと、普段においては展示での発表を基軸に3DCGを用いた映像やインスタレーションを制作しています。(http://issei.in) 近年においては、ゲームやインターネットにおける表象から作品制作を行うことが規範になりつつあります。

角銅さんとはそういった活動の中で知り合い、私の展覧会にもいくつか来て頂いていました。そして6月の初め頃、7月に発表されるソロアルバムに合わせてMVを制作して欲しいと角銅さんから連絡を頂き、MVの制作をする運びとなりました。

そして実際に二人で音源を聴きながら、角銅さんが今回のアルバムや演奏・制作などにおいて思考していることなどを共有し、どういった映像にするか、そもそもどの曲をMVにするのかを話しながら定めていきました。

音楽と会話の中から彼女の制作・思考において、あるプリミティブで無防備とも言える事象が通底していることがあると考えました。

例えば、彼女自身が生まれ持って視力がよくないこと。それ故、何かの行為によって生まれるそれらは視覚ではなく聴覚による印象へと収斂してしまうこと。それらの事からMVとする曲は2トラック目に位置している「Ne Tiha Tiha」が面白くなるのではないかとその場では決まりました。

「Ne Tiha Tiha」ではメロディとビートのどちらの質も持つような溶け合っている歌声とその対旋律があり、又、歯を磨く際の音を躍然としたテクスチャとして扱う様子などが確認出来ます。並びに、私が普段用いている3DCGの質感とも相性が良いだろうと判断し、「Ne Tiha Tiha」でのMVの制作に移りました。

しかしながら制作を行っていくと、「Ne Tiha Tiha」の構造上、いわゆるMVの振る舞いとしてあるようなキックや奇数小節の切り替わりに合わせるような振る舞いを映像が求められるような質になってしまい、彼女のアルバムを通してあるような、”無防備さ”があまり表出されない状態になりました。実際にアルバムを通して聴くと理解できるように、「Ne Tiha Tiha」はかなり異色なトラックなのです。その段階で既に6月の中旬になっており、締め切りも迫っているため判断を迫られた結果、大変迷ったのですが、4トラック目に位置する「窓から見える」にすることにしました。

つまりここに書かれているのは、すでに選ばれた曲「窓から見える」のMV依頼をされたわけではなくて、アルバム全体を表現するために、この曲が選ばれ、制作されたということがわかります。

続いて届いたメールには、MVづくりのための制作メモのようなものでした。

映像を制作するにあたって、角銅から様々な画像や映像を受け取った。それらは彼女にとって、何の”意図”も内包してはいない愚直なまでの iPhone で撮られた日常の風景である。

すべてが彼女を地続きとして自立するような画像と映像。それらを私自身の制作へのリアリティとして扱うことは困難を極めている。

何故ならば一切として自身の介入を許さない画像郡であり、そこで完結している為である。その為、私にはそれら画像・映像素材のその状態”あるがまま”を映像で出力しなければいけない。

彼女は何のためらいも疑いもなく、そのような個人を露わにする素材を送ってくる。あまりにも無防備なそれら姿勢からも見てとれるように、おそらく彼女の「窓から見える」の意味する先は、実直なまでの(自分の位置する)部屋から見た窓の風景であろう。しかしながらその彼女の思考・姿勢をそのまま私の映像が体現することは、全くもって意味がない。それは映画の主題歌をつける際に、その主題歌が映画の内容を歌ってはいてはいけないことと同じである。

主題歌と映画は、むしろ距離を持つべきであり、多重的に重なるのではなく、多層的に位置し続けるように制作されるべきだろうと考えた。主題歌の機能は、作品をより複雑にすることとも言える。私は角銅のその愚直なまでの姿勢を、より複雑に、多角的に鑑賞できる強度をもつ映像として出力しようと考えた。彼女の姿勢を疑うことを規範とした。その為、映像からも見て取れるように、部屋の窓から見た”外の風景”の構図は一切として無いものにした。

アングル上では、意図的に窓の”外側”から観測した部屋の風景であり、3DCGにおける部屋以外のオブジェクトを一切として制作せず、外の光源すら設定しないことにした。そうすることで、外は存在しなくなり、「窓」の意味・状態が一旦融解される。

本来、窓が内側から外側を観測する機能をもつオブジェクトならば、この世界において外は存在せず、むしろそれは内側(部屋)が外側であるように忽然と、むき出しに佇まうようになる。端的に言うならば、この部屋が窓から見える”風景”となる。この部屋は角銅の姿勢そのものとも考えられるであろう。

窓は観ると同時に観られる対象にもなる。壁に埋め込まれたガラスが窓だけではなく、隙間や、穴も窓としての機能は保持出来るであろう。最初のシークエンスにおいて映し出される真っ暗な亀裂のような風景は、ダンボールで作られた小さな空間内部であり、その僅かな隙間から部屋を観測している様子である(それは中間部のiPhoneで照らしたLEDから見て取れる)。

角銅の無防備でプリミティブな振る舞いを、このダンボール空間は表象できるモチーフとして在ると考えると同時に、その真逆、カウンターとして防御とシニカルも併せ持つことができる多様性があると考え、実装した。そしてそのダンボール内部には、角銅がiPhoneで撮影した写真が貼り付けられている風景になっている。

メモはここまで。

思いがけず、アーティストのあたまの中を覗き込むようなやりとりとなりました。

メディアアーティストなど、シーケンシャルなビデオ映像を普段制作していない作家が、MVを手がけることは、もはや日常茶飯事になってきました。

いわゆる映像作家とは、まるでちがうロジックが、映像に際だった特徴を刻印してくれているような気がします。

MVに登場する部屋の3Dモデル。部屋の外にはなにもない空間が拡がる。
部屋の中に、ダンボールで作った巣のような物体がある。この中から視線は部屋の中を覗き込んでいる。
bygabin

NEWREELの編集者。だいたい家にいる。インデペンデントな作りの映像と、映像の周辺に起こっていることに特に惹きつけられてます。

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