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オープニングで考えるアニメーション
「新世紀エヴァンゲリオン」の巻(2)

細馬宏通 細馬宏通 Aug 19 2020

細馬宏通さんによる連載「オープニングで考えるアニメーション」。「新世紀エヴァンゲリオン」のOPについての考察 第2回目は、歌詞に登場する“いたいけな瞳”というフレーズについて深く掘り下げます。

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『残酷な天使のテーゼ』(作詞:及川眠子、作曲:佐藤英敏、編曲:大森俊之、歌:高橋洋子)のタイトルが萩尾望都の『残酷な神が支配する』から着想されたことは作詞者の及川眠子自身によって語られていますが(及川眠子「ネコの手も貸したい 及川眠子流作詞術」リットーミュージック)、実は歌詞にもマンガからとられたとおぼしきフレーズがあります。

それは「いたいけな瞳」です。

1992-93年に連載されていた吉野朔実の『いたいけな瞳』のファンだったわたしは、1995年に『残酷な天使のテーゼ』をきいて、すぐにこのマンガのことを思い出しました。『いたいけな瞳』の登場人物たちは、見てはいけないものを(いたいけであるがゆえに)見てしまい、そのことをきっかけに生活の裂け目をふとのぞきこむことになります。その裂け目の中でも特に繰り返されるのは、自分や他人の似姿に出会って考えや感情を揺るがされるというモチーフです。これは『いたいけな瞳』だけでなく吉野朔実作品の重要なテーマの一つですが、そういえば、この似姿という問題は、エヴァンゲリオンという存在や、「シンクロ率」、あるいは綾波レイと母親ユイの関係をどこか想起させます。

及川眠子は先に挙げた本の中で、歌詞の語彙を増やすためのネタの宝庫として「少女マンガ」を挙げています。『残酷な天使のテーゼ』の「いたいけな瞳」が吉野朔実『いたいけな瞳』から来ている可能性は大いにあるでしょう。では、歌に用いられている「いたいけな瞳」は、吉野朔実作品と結びつけて考えればよいのでしょうか。それにしてはエヴァの物語は、シンジにしろアスカにしろ、母性への希求が強すぎます。吉野朔実作品での母性の扱いは極めてドライで、むしろ母性は、出産あるいは家族といかに切り離しうるか、という問題として描かれることすらあります。

わたしは、歌詞が示す両者の結びつきと相違点をどう考えたらよいのか昔から腑に落ちなかったのですが、後年、作詞者の及川眠子がこの曲の成立について意外なツイートをしているのを目にしました。

「『残酷な天使のテーゼ』誕生秘話も、うちのマネージャーが通りすがりに仕事もらってきて、30分ほど適当に打ち合わせして、あと企画書斜め読み&2話分のビデオ早送りで観て、ええい好きなこと書いちゃえ~!で、約2時間で書いたものです~。みんなの夢を壊してごめんね。」

夢が壊されるどころか、むしろ限られた手がかりからあれだけの歌詞をあっという間に紡ぎ出す作詞家の力に驚かされるのですが、一方で、なるほど、『残酷な天使のテーゼ』の物語性が緩やかなのは、こういう経緯があったからなのかと納得もいきます。ならば、『いたいけな瞳』をめぐってあれやこれやの空想を必要以上に掘り下げるよりも、さまざまなイメージの散乱を楽しむ方がよいのかもしれません。

けれど、たとえ「いたいけな瞳」ということばを吉野朔実のマンガから切り離したとしても、このことばのインパクトが減じるわけではありません。なぜなら、「いたいけな瞳」ということばとともに示されるオープニング映像(演出:鶴巻和哉、作画:本田雄、長谷川眞也)が、あまりにぐっとくるからです。どうぐっとくるのか。今回は、その話です。

「いたいけな瞳」の見開かれ方

改めてオープニングを見てみましょう。まず「いたいけな」ということばの始まりとともに、画面左に窓辺にたたずんでいる綾波レイの姿が浮かび、続いて、大きな目のアップがきます。この一連の動画によって、「いたいけな」の主体は綾波であり、彼女が目の持ち主であることは明らかでしょう。問題は、その目の描かれ方です。

まず注目したいのは、目のショットに費やされている動画の数です。通常、簡単なまばたきを描くときは「目パチ3枚」などと言われて、閉じ目、半開きの目(中目)、開き目の3枚を用意して、まばたきを表現します。これに対して、「いたいけな瞳」では5枚の目が描かれています。

図1 「いたいけな瞳」で描かれている動画

さらに注意したいのは、5枚の内容です。図1のaからeを見ればわかるように、目は閉じているところから全開になるまでを徐々に開くように描かれているわけではありません。閉じた目(a)から次の目(b)ですぐに目は2/3ほど開かれています。そこからc, d, eと目の大きさはごくわずかに変化します。言い換えると、まずぱっとある程度の大きさに開いてから、さらにぐぐっと広がる。何だろうかと開いた目が、にわかには信じがたい光景を目の前にして、事態を見極めようとさらに開かれる。まさに目を「見・開いている」のです。ちなみに、最初に開くときのコマ数は、a:1→b:2→c:1→d:1→e:3コマ。aからbまではわずか1コマでパッと開いて、そこから徐々に大きくなる。最後のeで3コマ費やすことで、全開になったところが視聴者の目に止まりやすくしていることがわかります。

b~eでは、目の大きさの変化は微々たるものなのですが、おもしろいのは、この変化をよりはっきりさせるために、いくつかの「補助線」が引かれていることです。まずまぶたの部分にひかれた線(図2-1)。これがb→eと移行するに従って、長くなり、目の開く度合いに応じてまぶたの二重が深くなっていくことが表されています。もう一本重要なのが、目のすぐ上に微かに引かれた線(図2-2)。この線がb→eで徐々に隠れていくことで、相対的に目の縁が上に移動しているように感じられます。

図2 目に描き込まれたいくつかの補助線

では、「いたいけな瞳」はいったい何に対して目を「見・開いて」いるのでしょうか? その手がかりを与えてくれるのが眼球の表現です。虹彩に映った白い光の領域(図2-3)は、b→cで明らかに形が変わって大きくなり、目に何か明るいものが映りだしたことを示しています。一方、瞳孔(図2-4)はb→eと進むに従って小さくなっている。つまり、この目の持ち主は、目の前に突如出現した明るい光景に対して目を見開くとともに、そのまぶしさに反応して虹彩を絞り込んでいるのです。

再び目を閉じるところにも注目です。閉じるときはb~dの動画は経由せずに、すぐにeからaに移ります。半眼を経由する方がもちろんなめらかに閉じる感じが出るのですが、あえてそれを飛ばしていきなり閉じることで、ぱちりとしたシャープなままばたきに感じられます。

目は2度見開かれる

もう一つ、重要な点は、「いたいけな瞳」の部分で、まばたきをはさんで目が二度見開かれることです。じつは一度目の見開きと二度目の見開きでは、以下のようにコマ割りに違いがあるのです(表1)。

表1 「いたいけな瞳」の二度の見開きでの各動画のコマ数

二度目の後半に注意してみましょう。よく見ると、一度目とは違って、目は全開になってからのeで3コマ費やされるのではなく、全開の一歩手前、dで足踏みして3コマ費やされています。そして、ついに完全に見開かれたと思ったら、わずか1コマで次のショットに突入します。このちょっとしたずれのおかげで、見る者は、「いたいけな瞳」がぱちぱちと2度まばたいて十分全開になってからというよりは、全開になろうとしたまさにその瞬間、続くショットを目にすることになります。その続くショットとは、シンジの乗ったエントリープラグが挿入されるところです。印象的なのは、プラグを固定していたロックボルトが、まるで目を見開くように四方に外れていくことです。おっと、うっかり「まるで目を見開くように」と書きましたが、もしこのショットを単独で見たならば、それが「目」のようだなどという印象は生まれなかったでしょう。まぶたの運動を示すショットがまさに全開に達した瞬間に、プラグからロックボルトの外れるショットに切り替わった。そのことで、あたかもエントリープラグは目の、ロックボルトはまぶたの、隠喩に見えるというわけです。異質なショットをつないで両者のあいだに隠喩を感じさせるのはモンタージュの基本ですが、ここではその隠喩が、まぶたを開くタイミングによってさらに強調されていることに注意しましょう。

音楽との関係にも、実は同じような前倒しが仕込まれています。歌詞を小節で割ると「しらない い|たいけなひと|み~」なっているので、常識的には「ひとみ」の「ひと」のところでまばたく目のショットを入れ、「み~」と伸ばすところでエントリープラグのショットに移れば、「ひとみ」という一つの単語の中に、目とエントリープラグが収まり、隠喩的なモンタージュができあがりそうなものです。

しかし実際のショットは違います。「いたいけなひとみ」に続くエントリープラグのショットは、小節の頭である「み」を待たずに半拍早い「とみ」のところで開始されるのです。「いたいけなひとみ」という歌詞が本来もっている音楽の構造に、過剰に食い込むショット割りが行われ、エントリープラグは、ただの眼の隠喩であるだけでなく、あたかも肉体に機械を挿入するような暴力として体感されるのです。

『新世紀エヴァンゲリオン』の本編では、目の存在、そして見ること/見られることの恐怖と暴力が重要なモチーフとして現れます。エヴァを見た誰もが覚えているシンジの台詞「逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ逃げちゃダメだ」は、目の前の恐怖に対し眼をつぶりながら発せられます。そして次の瞬間に眼を開けたときには、もはやシンジの瞳は明るさに対して見開かれ、エヴァは狂ったように敵に襲いかかります。「いたいけな瞳」でのまばたきする目とエントリープラグのシークエンスは、まさにこうしたエヴァ覚醒に伴う「見ること」の暴力を思わせるものです。

ハリウッドの名編集者として知られるウォルター・マーチは、映像におけるショットとショットの継ぎ目(カット)のことを『映画の瞬き』と呼んでいます。わたしたちの目のまばたきは、単なる生理現象ではなく、感情や思考の流れに左右されてその頻度が変わってゆく。マーチは、ショットもまた、そうした感情や思考のまばたきのようにカットするべきではないかと「映画の瞬き」で説いているのです。「ある意味、カットすることで、つまり唐突に視界を変えてしまうことで、編集者が観客に代わって瞬きをしてあげているという言い方もできる」(ウォルター・マーチ「映画の瞬き」フィルムアート社)。

2度見開かれたあと、綾波の目は突如、エントリープラグのショットへとつながれる。綾波の意識の流れを表すかのようなそのあざやかなカットは、綾波の、そしてわたしたち観客にとっての、第3のまばたきと言えるかもしれません。その、第3のまばたきに割り込むように、シンジを乗せたエントリープラグはエヴァの本体に射し込まれる。あたかも見開かれた目に信じられない光景を射し込むように。

※「新世紀エヴァンゲリオン」の巻(1)はこちら

細馬宏通

早稲田大学文学学術院・文化構想学部教授。日常生活やメディアにあらわれるさまざまな声と身体の動きを研究している。著書に『いだてん噺』『今日の「あまちゃん」から』(河出書房新社)『ELAN入門』(ひつじ書房)、『二つの「この世界の片隅に」』『絵はがきの時代 増補新版』『浅草十二階 増補新版』(いずれも青土社)、『介護するからだ』(医学書院)、『ミッキーはなぜ口笛を吹くのか』(新潮社)『うたのしくみ』(ぴあ)など。