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いまの自分に疲れている人のための あおぞら技術用語
「デーモン化の巻」

清水幹太 清水幹太 Nov 8 2018

清水幹太さんによる技術用語解説の第7回が更新! 今回は小学生時代の恨み節をまじえつつ「デーモン化」についてわかりやす〜く解説しております。

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悪夢のなわとびキングダム

私の母校である、世田谷区立M小学校は、世田谷区の真ん中らへんの住宅地に位置する、当時の言葉で言う「マンモス校」(人数規模が大きい学校)だ。

私が通っていた当時のM小学校は狂っていた。少なくとも、私にとっては最悪の環境だった。私はいわゆる76世代、団塊世代の子供の世代で、そこそこ人口の多い世代だった。その上で、M小学校は世田谷区の真ん中らへんという住宅地にあったので、とにかく子供の人数が多く、1クラス50人くらいで1学年に5クラスが存在した。

小学6年のとき、私は6年5組に属していた。担任は若くてカジュアル、色縁メガネをかけてオシャレ感を漂わせた男性教師S先生で、この先生はとても良い先生だったかと思う。それは良かった。

タチが悪かったのが6年1組の担任だったHという教師で、こいつが凄かった。「絶対に笑わないそのまんま東」みたいな感じで、筋肉パツパツ、常にジャージを着ている。いわゆる体育よりの教師だったのだが、何が凄いって、「なわとびに命を懸けてる」のである。

なんだか知らないけど、いつもなわとびをやっていて、なわとびのことばかりしゃべっている。体育の授業は合同だったりしたのだが、どんどんなわとびをぶっこんでくる。直接的にそれに晒される6年1組に配属されなかったのが幸いとしか言いようがないが、奴は学年のみならず学校全体にどんどんなわとびを啓蒙していく。

体育の授業では、いつの間にか細分化された「なわとび段位システム」みたいなものがルール化された。「二重跳び何回で初段」とかそういうのである。普通の学校にもそういうのはあったのかもしれないが、なんか凄いハードコアで、上の方になると「五重跳び」とかあるのだ。「小学生にそんなんできるものか!」という領域だ。そういう段位とか級位が細かく刻まれ、謎の「なわとび階級システム」が校内に構築されていく。

極めつけは、どういうタイミングだったか、「M小学校は世田谷区の“なわとびモデル校”になりました」という全校通達のようなものが発表されたのだ。なんか、知らないうちに世田谷区公認のなわとび学校になってしまったのである。だいたい、「なわとびモデル校」ってなんなんだ?

しかし、泣いても笑っても、M小学校はなわとびに制圧されてしまった。

そんな価値観の中では、女子の興味を引くのはなわとび力のある男子になっていくし、男子のコミュニティの中でもなわとび能力を基準としたヒエラルキーが形成されていく。そしてそのヒエラルキーは段と級で細分化されている。そこには、なわとびキングダムが形成されていた。

いや、そこで、ちゃんと人並みに縄を跳べていれば別に良かったのだ。キングダムの頂点に君臨することはできなくても、平均的な「なわとび平民」として生きていくことができる。

しかし、このなわとびキングダムは、私にとっては最悪のキングダムだった。

私は、一切なわとびができないのだ。基本的に運動神経は鈍いし、勘所も悪いので、誇張ではなく前跳び(ふつうに縄を前方に回転させて跳ぶやつ)が1回もできない。今もできない。人生で、できたことがない。

この胸糞悪いなわとびヒエラルキーシステムでは、初期状態である「無級」から、最初の階級である「11級」に進むためには、この前跳びを5回連続でできなくてはいけない。つまり、ドラクエで言ったらスライム5回倒すくらいの簡単なミッションなのだが、私はスライムを倒すことすらできないのだ。今になってもまだ。

ヒエラルキーというものはよく、ピラミッドで表現される。支配者が頂点に立ち、その下に多くの被支配者がいる。しかし、私にとってのこのなわとび地獄は、むしろ「逆ピラミッド」だった。

何しろ、前跳びをできないやつなんか私以外にいない。つまり、私はただ1人、一番下の階級でありつづけた。いや、階級すらない。無級なのだから、スタート地点にも立っていない。全員から下に見られる状態。それが私のポジションだった。

小学校の社会というのは残酷だ。そうなったとき、私は男子コミュニティから除外された。なわとびがうまい連中が、クラスを支配し始める。クラスに男子が25人くらいいて、そのうち22-3人くらいはなわとび支配階級の仲間に入れてもらい、私はそこからつまはじきにされた。

なんというか、私はなわとびが全くできなかっただけなのだが、それがゆえに、なんとなく「アンチなわとび派」みたいなマイノリティ側になってしまった。

親なわとび派に復讐する

日本は民主主義の国だし、小学校のクラスもまた、民主主義というか、多数決なわけで、学級委員やらなにやら晴れがましいポジションは大勢を占める親なわとび派のもので、女子の間で興味の中心になるのも当然親なわとび派の上層部(つまり、なわとびが上手な人たち)だった。

もはやあんまり覚えていないのだが、確か、クラス対抗のなわとび対決みたいなものが開催された。もちろん前述の「なわとび教祖」である6年1組のH主導のイベントだ。奴は、何かことあるごとに全部なわとびを仕込んできて、なわとびカーストを強固なものにしていく。

で、さらにうろ覚えだが、6年5組はその対決で敗北した。前跳びすら一度も跳べない私のせいだった。

私はそういう状況にはかなり慣れているはずだった。覚えている一番古い記憶は、幼稚園の年長のときの運動会のリレーで、私が属していたバラ組が、最下位になったときのことだ。そのリレーは身長が低い生徒から順番に走っていくもので、私は運動神経はゼロにもかかわらず背だけは高かったのでアンカーだった。私の直前まではトップだか2位だったかなのに、私のせいでぶっちぎりの最下位になってしまって、クラスの男子女子からボコボコに非難された。

それ以来、小学校生活の間はずっとそんな感じだった。今の自分の自己肯定感の欠如というのは間違いなくこの時代に育まれたものだ。ここ数十年の日本の小学校社会には、運動ができない生徒の居場所は少なく、そういう子たちにとっては小学校時代というのは逃げ場がない暗黒時代にしかならない。

少し話がズレてしまうが、40を超えた今となっては「健康のために運動する」ことの意味とか大切さを頭では理解しつつも、なんていうか根底に「運動」とか「体育」とか「スポーツ」みたいなものに対する恨みが積もっているので、「運動は敵」みたいな状態になっていて、運動を避け、どんどん不健康になっている。

そんな「元運動無神経児」の方は私だけではないのではないか。

話をM小学校のなわとび対決に戻すと、その際も私はクラスの敗北の責任を非難された。まあ私のせいで敗北しているのだが、いろんな言葉で責められたり無視されたり殴られたりだけでなく、それまでに溜まっていたなわとび社会へのフラストレーションもあって、リミッターを超えてしまったのだろう。

クラスの親なわとび派を全員殴ることに決めた。とはいえ、相手は私1人に対して22人とかだ。奴らが集まっているところでケンカを売ったとしても私1人がボコボコにされるだけだ。

そこで私がとった戦略が「デーモン化」である。

トイレとか、放課後の下駄箱とか、水飲み場とか、理科室とか、親なわとび派というか、クラスの他の奴らが1人で通りそうな場所に通りそうなタイミングで待ち伏せる。

たとえばトイレの一室でデーモン化した私が待機していて、ターゲットが1人で入ってきたことを検知するや否や個室から飛び出して、そいつをぶん殴って逃げる。

その日、私は常にデーモン化していた。同級生たちが1人になったタイミングを随時検知して襲撃した。だいたい5人くらい殴って、何人か泣かした。背は高かったしデブだったので、動きは遅いが圧力はあったのだろう。

その日の最後に親なわとび派の首領格みたいな奴に捕まって逆に複数人から殴られたのだが、担任が気づいて割って入ってくれたおかげで、どうにか収まったのだったと思う。

結果、デーモン化して奴らを殴っても、卒業までなわとびキングダムは何も変わらなかったし、私はマイノリティであり続けた。特に良いことのない小学校時代だった。

「デーモン化」の本当の意味

さて、さっきから私は「デーモン化」という言葉を連発して書いている。私が今回ダラダラと小学校時代の嫌な思い出と恨みを書き連ねてきたのは、すべてこの言葉について説明するためだ。しかも、この言葉を説明するためには、なわとびがどうとか運動がどうとかあんまり関係ないので、私はただ当時から引きずっている恨みを吐き出したかっただけなのかもしれない。

デーモン化、というと、「悪魔に魂を売る」というか「ダークサイドに落ちる」というか、そういう印象を持つ人が多いのではないだろうか。

何しろ「デーモン」だ。デーモンといったら、悪魔とか鬼とかそういう意味であり、あるいは日本では「閣下」みたいなことになる。白塗りのメイクを施していつも向こう正面で相撲解説をされたりしているデーモン閣下のことだ。

あの方をテレビ等で目にするたび、日本は懐が深くて良い国だな、と思う。あんなメイクをして、10万なんとか歳とか言っているのに、「ニュースで英会話」みたいな硬めの番組では、堅気のスーツ姿の人たちに混じってコメンテーターとして何か言っていた。そしてもはやそれが普通になり過ぎていて、誰も疑問を持っていない。

話を戻すと、「デーモン化」というと、あんな感じになる=「悪魔化」みたいに聞こえがちだ。しかし、「デーモン化」は全然違う意味を持った技術用語だ。

コンピュータ・プログラムというものは、基本的に「実行」するものだ。たとえば、○+□という足し算を計算して答えを出すプログラムがあるとする。それに対して「○は8で、□は6です。計算して!」と命令=実行すると「14」という答えが出てくる。そういうものだ。

それが「TwitterのIDとパスワードはこれとこれだから認証して!」みたいな場合もあれば、「今いる場所の緯度と経度を送るから天気を教えて!」という場合もある。プログラムを「実行」するというのはそういうことだ。

しかしこれは逆に言うと、実行するまで何もしてくれない、ということでもある。「言われてないんで何もしませんよ。なんかやって欲しいならそう言ってくださいよ」ということだ。やる気がない。前のめりではないのだ。普段は座っていて、何か言われてやっと「はいはい。やりますよ。よっこいしょ」なんて言って立ち上がって作業する感じだ。

しかし世の中それだけだと困る。生きていると、もう少し前のめりにならなくてはいけないことがある。

そこで、通常時は「命令待ち」モードのやる気がないプログラムに、少しやる気を出してもらう。言葉を変えれば、「立ちっぱなし」になってもらう。

つまり、実行状態で待ってもらう、ということだ。常に「いつでも来やがれ!」みたいな臨戦態勢でいてもらう。立ち上がりっぱなしなので、一定の条件を検知したらすぐに反応する、みたいなこともできる。

例えば、「ニューヨークの天気が雨になったらアプリ側に情報を送って!」みたいなことにして、プログラムを常に実行しておく、ニューヨークの天気が雨になった瞬間に即座にそれを検知して何かをしてもらう、ということができる。

前述のやる気ない状態に対して同じことをやろうとすると、「あのー。もしニューヨークの天気が雨になっているようでしたら、アプリ側に情報を送ってくださいませんか?」という遠回しな要求を1分ごとに送る、とかそういう話になってしまう(それでも1分ごとだとすると、最大1分近く反応が送れることがある)。

だから、上記のような感じで「何かあったらすぐ反応」状態になってもらう=「やる気のある」状態になってもらう必要がある。

これが「デーモン化」だ。正確にはUNIX(ウェブサーバ等々で多く使われるOS=基幹システム)系のコンピュータに限った言葉だが、あるプログラムを「起動しっぱなし待ち受け実行状態」にすることをいう。

この場合の「デーモン」は悪魔の「demon」ではなく、「守護神」を意味する「daemon(だえもん)」である。

私の少年時代の親なわとび派襲撃のケースでいうと、「なわとび派の誰かが1人で通りがかったらいつでもぶん殴ってやる」という待ち受け状態が、デーモン化している状態ということだ。実行しっぱなし、いつでも反応できる。

もちろんデーモン化する基本的なメリットとしては、この「いつでも反応できる」という部分で、プログラムがデーモン化されていると、そうではない場合より高速に反応することができる。ゆえに、リアルタイムに反応するプログラムの多くはデーモン化されている。

その代わり、この状態は本来必要なときにだけ動けば良いものが常に動きっぱなしになっている状態でもあるから、コンピュータに負荷がかかる。あまりたくさんのプログラムを1つのコンピュータ上でデーモン化しすぎると負荷が増えすぎて遅くなってしまうかもしれない。

だから、私は小学6年生時代、悪魔に魂を売って同級生を襲撃したわけではない。相手が多く、ひとりひとりぶん殴る必要があったゆえ、それに合った条件にすぐに反応できるよう自分をデーモン化したのだ。

家族でアメリカに移住する前、実家の近所の同じ学区に住んでいた関係で、長男はM小学校に入学した。

私がデーモン化していた下駄箱や水飲み場は、あまり変わらずにそこにあった。しかし、M小学校はなわとびモデル校ではなくなっていて、学校はなわとびの支配から開放されていた。しかし、なわとびなんて地獄の火の中に投げ込んで撲滅すべきだ、という恨みだけは決して消えはしない。

私の中で「なわとび」と言われたら「大嫌いだ」と答えるプログラムは、小学校の時から変わらず、30年近くデーモン化されっぱなしだ。

(マンガイラスト・ロビン西 )

清水幹太

バーテンやトロンボーン吹き、デザイナーを経て、ニューヨークをベースにテクニカルディレクターをやっている。

BASSDRUM( http://bassdrum.org